紀伊山地の霊場と参詣道

紀伊山地の霊場と参詣道 大雲取越え

「熊野古道」が平成16年7月1日に世界遺産に登録されました。

紀伊山地は太古の昔から山や岩、森や樹木、川や滝などを神格化する自然信仰の精神を育んだ地で、特有の地形や気候、植生などの自然環境に根ざして育まれたところです。

また、「熊野古道」は伊勢や大阪・京都と紀伊半島南部にある熊野の地とを結ぶ道のことをいい、当社所有の和歌山県那智勝浦町大雲取山林を通っています。

昔は「熊野街道」とも呼ばれ、なかでも保存状況の良い部分が「熊野参詣道」として国の史跡に指定されていますが、今回世界遺産に登録されました。

私共も、ふるさとの先人から受け継いだ、豊かな和歌山のすばらしい歴史と自然と文化を、あらゆる脅威から守り、伝えていくことに、微力ながらも参加し、お手伝いできればと考えております。

中世の古道

那智と本宮を結ぶ大雲取、小雲取越えの山中三十五キロの嶮しさは、数々の記録にもあるが、今から七百七十六年前、後鳥羽院の熊野御幸に随従した当代の歌人、藤原定家がその中で、

<終日険岨を超す、いまだかくの如きの(苦しき)事に遇わず、雲トリ紫金峰は掌を立つが如し……前後を覚えず……この路の嶮難は大行路に過ぐ、(疲れのあまり)くまなく記すあたわず>

と悲鳴をあげているのをみても、難渋の程が想像できる。

この熊野行は、よほど定家の骨身に応えたらしい。もっとも定家は、雲取越ばかりではなく、熊野一の鳥居のある藤白坂でも、

<道さいかい崔嵬、ほとんど恐れ有り>

と声をうわずらせ、以来行く先々の山坂で、

<こころな喪きごとく、さらになす方もなし>

<嶮岨の遠路、無力、きわめてすべなし>

と頭を抱え込んでいる。

とはいえ、定家が格別に足弱であったわけではない。熊野道が嶮しすぎるのである。迂回を知らない熊野路は、目的に向かって一筋にすすむ。たとえそこに山があり川ががあろうと頓着はしない。道はひたすら一直線に山嶺に駆け上がり谷底に駆け下る。その山の数も一つや二つではない。京からの行程、往復三十日近い道中、ひしめくような山また山を越え……まるで巨大なノコギリの歯の連なりを蟻たちが踏み越え踏み越えしていくような、そんな連続なのだから堪ったものではない。

事実、気息えんえん、声をあ叫げて泣きたいような難所が今も幾つか残っている。

その嶮しさゆえにか、大雲取、小雲取越えの径は後に大辺路の交通が活発になると一部の強熱的な熊野道者を除いて殆ど忘れ去られるようになった。道というものは、人間の足が途絶えると、たちまち自然に帰る。雲取越えの往還にあった茶屋跡も、延々とのびた石畳の径も、今はくれ暗ぐれと茂りたつ杉木立と丈なす雑草に覆われ、かつて死出の山路とよばれた中世の幽暗を浮かび上がらせている。

茂吉の雲取越

健脚揃いの"熊野古道を歩く会"の人びとの尻尾にくっついて、念願の雲取越をしてからもう七、八年になる。八月末の夏の真っ盛りの日であった。今、その時の汗でよれよれになったメモを取り出して繰ってみると、青岸渡寺の登り口を出たのは朝八時。

妙法山道との分岐点から大雲取駆け抜け道の上り坂茶屋跡に出、この平みで一息いれ、雑草の群がる茂みの中を、仙右衛門坂の石畳の苔を踏んでいく。

このころ、すでに全身川底から這い上がったように汗にぬれ、喘ぎに喘いでいるのはいうまでもない。

ここから胴切坂をのぼると、熊野山中随一の眺望という舟見峠(八八四メートル)の舟見茶屋跡に出るが、のんびりと風光を眺めている余裕などはない。この先、掻餅茶屋跡から下り八丁の"亡者の出合"を経てかつて歌人の定家が<掌を立てたるが如し>と形容した大雲取山が待ち受けているのだ。

歌人といえば、土屋文明、武藤善友と熊野の旅に出た斎藤茂吉が大正十四年の夏にこの大雲取越の径をたどっている。

<……さてこれからが舟見峠、大雲取を越えて行かうとするのであるが、僕には行けるかどうかといふ懸念があるくらゐであった……この山越は僕には非常に難儀なものであった。いにしへの"熊野路"であるから石が敷いてあるが、今は全く荒廃して雑草が道を埋めてしまっている。……僕は一足ごとに汗を道に落とした。それでも山に登りつめて、下りになろうといふところに腰を下ろして、弁当を食ひ始めた。道に溢れて流れてゐる水に口づけて呑んだり、梅干しの種を向かふの笹藪に投げたりして、できるだけ長く休む方が楽であった>(念珠集)

茂吉はこの山路で二人の巡礼に出合っている。

その一人は信濃の国、諏訪郡の老いた巡礼で、国には妻子があるのだが信心のために諸国を遍路しているのだという。土屋文明が一粒の飴をやると、老巡礼はその飴をおしいただき、胸にかけてある袋の中にしまって、とぼとぼと山径を歩いていった。

大雲取を越えて、小口河原の宿で一泊した茂吉は、翌日の小雲取の山中でもう一人の巡礼にあっている。
雨上がりの山径にゴザを敷いて、刻みたばこを吸っていた若い巡礼は、大阪の職人で、以前眼を患って大阪医大で治療を受けたが、はかばかしくなく、そのうちに片方の目がつぶれ、もう片方の眼も視力を失い、次第に見えなくなってきた。思い悩んだ若い職人は、浮き世を捨て神仏にすがる決意をし、四国遍路の旅に出る。と、そのうちに片方の視力が回復しはじめ、少し見えるようになってきた。安心した若い職人は巡礼の旅もこのぐらいにして、浮き世の仕事に戻ろうと思って旅をしていると、どうしたことか再び眼が悪化してきた。それに驚いて今もこうして旅を続けている。そう話しながら若い巡礼は浮き世を離れている我が身の境涯がいかにも残念でならないらしく「いまいましい」と口走ったりして、茂吉に強い印象を与えている。

<……この山越えは僕にとっても不思議な旅で、これは全くT君の励ましによった。然も偶然二人の遍路にあってずいぶんと慰安を得た。何故かといふに、僕は昨冬、災難に遇って以来全く前途の光明を失ってゐたからである。すなはち当時の僕の感傷主義は、曇った眼一つでとぼとぼと深山幽谷を歩む一人の遍路を忘却しがたかったのである。しかもそれは近代主義遍路であったからであろうか。僕自身にもよくわからない>

雲取り越えのダル神

欝然とした杉木立の急坂の中に這いのびているじめじめと苔むした石の径は、一足ひとあしに苦しさを加えてくる。

延々と続くこの石畳の径は古い鎌倉道の造道法を伝えた様式のもので、交通史の上でも貴重だが、その道も雑草に覆われ、今巡っていく者にとってはあるかなきかの心細さである。

掻餅茶屋から亡者の出合への径はひときわ不気味だ。夏草の群がる径のそばのところどころに、分厚い苔の衣をかぶった石仏や墓石が見える。それらはいずれもこの山道に行き倒れた熊野道者を弔ったもので、

<××国人この地に相果つ>

<安政三年辰十二月 無縁地蔵>

等と彫られた文字の背後から死者の嘆きを今もほろほろと投げかけてくる。

小さな石仏や墓石がまとった苔の色は、永遠の沈黙に入った死者の唇の蒼さのようにも見えるし、また、石にな化りながら尚も生き続けているようにも見える。

雲取越え往還では、こうした小さな墓石によく出合った。径の傍だけではなく、何気なく草むぐらを分け入ると、そこに蒼ずんだ小さな墓がうずくまっていて、一瞬全身のうぶ毛が慄えるような恐怖をおぼえたえたこともある。

雲取山中で行き倒れたこれらの人びとは、みなダル神に憑かれたのだと土地の古老たちはいう。

ダル神に魅入られるのは、山道や峠を歩いている時で、にわかに激しい飢餓感に襲われ(実際は空腹でもないのに)どうしても足が進まなくなり倒れてしまうのだという。ダル神(ヒダル神・ダリ神ともいう)は小豆八斗の目方の神様で、けわしい山道で餓死したムゲンボトケ(無縁仏)の亡霊が山中をうろついていて、通りすがりの人に取り憑くのだといわれている。

もし山中でダル神にすがりつかれたら、生の米でも弁当の残りの幾粒かでも食うといい。たちまち癒って歩けるようになる。そのためには道中で弁当を食ったら、たとえ三粒でもいいから飯粒を残しておくものだと熊野では言う。熊野でダル神が出るのは、大雲取の長谷の奥、小雲取の石堂峠、それに辞職峠や笊山峠のあたりで、いずれも嶮岨この上もない山中である。

ダルというのはひもじ饑いとダルイ(困憊)の転じたものであろう。おもしろいことに斎藤茂吉もこの雲取超えをするとき、足達者であった父から以前「山を越す前は麓で腹をこしらえ、頂上で腹をこしらえ、少しでも食い物を持って行け。」と教えられたことを思い出し、そのとおり忠実に麓の滝見屋で腹ごしらえし、舟見峠の頂上にかかるとそこでも弁当をつかっているし、またダル神に取り憑かれた南方熊楠(熊野が生んだ世界的生物学者)がその体験を

<予、明治三十四年冬より二年半ばかり那智山麓におり、雲取をも歩いたが、いわゆるガキにとりつかれたことあり。寒き日など行き疲れて急に脳貧血を起こすので、精神呆然として足進まず、一度は仰向けに倒れたが、幸いにも背に負うた大きな植物採集胴乱が枕となったので、岩で頭を砕く難を免れた。 それより後は里人の教えに従い、必ず握り飯と香の物を携え、その兆しある時は少し食うてその防ぎとした>(南方熊楠全集)と語っているのも興味深い。雲取山中の怪しさはダル神の他に、樹林の中の小暗い径を歩いてくる死者によく合うといわれることだ。喘ぎながら歩いていて、ふと目を投げると横合いの木立の向こうを……遙か先の石畳の径を……死んだはずの肉親や知人の誰かが、とぼとぼと歩いている。そんな姿をよく見かけるという。それはおそらく嶮路につぐ嶮路に困憊して心気朦朧とした一瞬に見る幻覚なのであろう。が、そうだとばかり言い切れない何かがこの山中の仄暗みの裡には確かにある。(参考文献/熊野路 著者/神坂次郎)